先日ふと気になったので隣に座っていた友人(大阪人)に尋ねてみる。
大阪人は本当に納豆嫌いか?
質問1:「納豆、食える?」
回答A:「無理」
理由A:「
だって腐っとるんやん」
反論:「腐ってるんじゃない、発酵してるんだ」
反論A:「変わらんやん」
ここで話がループしだしたので別の人に訊くことに。即ち、後ろの席の大阪人(2人)。
質問2:「納豆、好き?」
回答B:「無理」
回答C:「めっちゃ食う」
理由B:「
だって腐っとるやん」
反論C:「腐ってるんじゃない、発酵してるんだ」
なんと先ほど僕と隣に座った友人とで繰り広げられた会話が丸ごと同じ形で再現されて仕舞ったのです。一言も違わず、全く同じ内容。これを聞いて隣の友人と爆笑したりなんかした訳ですが。
大阪人の全てが納豆を嫌悪するという訳ではないらしい。ただし、一般的な傾向としてはやはり納豆嫌いと言える様子。しかし、その場で納豆を嫌う理由としてあげられた「腐っている」というのは、恐らく彼らが納豆を嫌悪する根本的な理由じゃなくて、後付の理由みたいな気がする。
回答Cをした大阪人が回答Bをした大阪人に対して行った問答によってそれがより強く印象づけられる。
疑問C:「腐ってる(=発酵している)のが駄目ならヨーグルトだってあかんやろ」
反論B:「あれはまた別」
納豆嫌いが先にあって初めて「腐っているから」という理由付けがなされている感が強い。人によっては「あのネバネバ感が生理的に嫌」とか言い出しそう。納豆大好き派は「そのネバネバ感が良いんだろ!」と言い出しそうだけれども。他にも、
B:「腐らせる(=発酵させる)ってことは何か菌を使うんやろ?」
A:「あかん、菌使ってるなんて絶対食べられへん」
なんて事を言っていましたがこれも納豆に対する嫌悪感ありきの反応という気が。
人は自分の身近にない物や良く判らないものに対してよく嫌悪感を抱くけれども、その嫌悪感の理由というものは突き詰めて考えるとはっきり名言しづらい事が多々ある。そのあやふやな「感情」に基づく嫌悪感に何とか理由付けを与え、きちんと説明出来うるものにしたいと考える。嫌いだから嫌い、という論法が成り立つのはごく身内に限られた範囲内での事だけなのだ(本当はその身内の範囲内でも許されてはならないんだろうけれども)。
そこで、自分にとって不快を感じさせる物を排除できうる理由として、比較的後付けで理由を捻出しちゃったりすることがある訳だ。
世の中にはその理由付けを極めに極めて、一見科学的だけれども実はトンデモな論にまで発展させちゃったりする人がいるんだけれども、何よりも頭がイタいのはそういうトンデモ論を振りかざす人が台頭する事じゃなくて、トンデモ論をトンデモたらしめている駄目理論を、素晴らしい物だと両手放しに受け入れてしまう一般大衆の存在。
自分からほど遠い分野に関してだとそもそも興味を持たないだろうし、興味関心が強い分野に対しては自力で調査したり批判したりする事も出来るのだけれども、自分が「生理的に」受け付けない物に関して「それは『悪』だ」なんてある程度権威を持っちゃった人が声高に明言しちゃったりなんかすると、よくよく考えもせずに支持しちゃったりなんかする。そんな例が。
納豆の話から随分脱線したな。
納豆好きと嫌い。両者の境界は恐ろしいまでに深く、広い。
お前ら一回騙されたと思って食ってみ?
本当に騙されるから。